書評のような他者に向けたものではないが、とりあえず読んで参考になったところなどを自分の備忘録として書いておく。これから読んでみようかと思っている人の参考にもなるだろう。竹田さん、引用量が多くて m(_ _)m。
著者の
序章「竹田家に生まれて」は、著者のプロフィールのようなもので、海外旅行の話などはなかなかスリリングでおもしろかった。皇族と比較すれば一般国民と同じような教育を受けてきたと思われるが、決して庶民的な環境で育ったわけではなく、どちらかというと質素な上流家庭ち育ったという感じがする。小さい頃は(といっても昭和50年生まれなのだから比較的最近)徳仁(現皇太子)親王殿下や文仁(現秋篠宮)親王殿下や清子内親王殿下に遊んでもらったり、なんと美智子妃殿下(当時)のお膝にしがみついて大泣きしたとかヾ(^^)オイオイ、ちゃんと親戚付き合いしてるじゃないか。
第一章「万世一系の危機」は、傍系継承についての歴史的解説である。武烈天皇→継体天皇、称光天皇→後花園天皇、後桃園天皇→光格天皇の事例で、これは有名なので知っている人も多いだろう。
ちょっとメモしておこうと思ったのが、親王宣下の始まりと、それが世襲親王家制度につながっていくという筋道。
天平宝子 2年(758年)に淳仁天皇が皇孫から即位したことにより、翌年に( 詔 して淳仁天皇の兄弟姉妹を親王にしたことがあった。これが親王宣下の始まりであると考えられている。続けて( 宝亀 元年(770年)に光仁天皇が同じく皇孫から即位したときも、天皇の兄弟姉妹、そして皇子女を親王とした。その後親王宣下が慣例となり、本来親王となるべき皇子なども親王宣下を受けて初めて正式な親王になることができるようになった。一方、皇孫以下であっても親王宣下を受けることで親王になる道が開かれ、やがてそれが進んで世襲親王家の制度を成立させるに至った。(p.59)(
そして、臣籍降下と皇族復帰について。
いったん皇族の身分を離れ臣籍に下ったものの、再び皇族に復帰して天皇となった例が一方ある。第五十九代宇多天皇である。光孝天皇の第七皇子として誕生した定省 親王は源氏の姓を賜わって臣下に降り、( 源定省 と称した。しかし、仁和3年(887年)に光孝天皇が発病すると、再び親王に復帰させられ、皇太子となり、間もなく光孝天皇の崩御に伴って即位した。宇多天皇は約10間在位した後、( 寛平 9年(897年) に譲位し、昌泰2年(899年)仁和寺で出家して初の法皇となった。(
宇多天皇は関白藤原基経 と対立して藤原氏に強い不信感を持ったが、基経が没した後は親政を実施した。天皇の推し進めた綱紀粛正、民政の活性化などの政治改革は、後に「寛平の治」と呼ばれて高く評価されることになる。( 菅原道真 を重く用いたこともよく知られている。(
宇多天皇のように皇族の身分を離れて姓を賜わることを「臣籍降下」、もしくは「賜姓 降下」という。諸王が賜姓降下した早い例は、( 天平 8年(736年)に敏達天皇の玄孫(四世王) 葛城王らの例に見ることができ、また皇子が賜姓降下したのは、延暦6年(787年)に桓武天皇皇子の( 岡成 に長岡朝臣を、また光仁天皇皇子の( 諸勝 に( 広根朝臣 を賜わったのが最初の例である。その後、嵯峨天皇の皇子女八方が、( 源朝臣 の姓を賜わり相次いで臣籍に降ったのが賜姓源氏の初例となり、文徳天皇・清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇の皇子女に及んだ。賜姓降下した清和天皇の皇子孫の清和源氏や、桓武天皇の皇子孫の桓武平氏などはよく知られている。(p.63)(
昔は女性皇族は結婚相手が制限されていたという点も、現代の皇位継承を考えるうえで忘れてはならない。皇親はそれなりの身分の人と結婚するのが前提条件だった。その意味では、女性皇族が結婚後も皇籍に留まれるように皇室典範を改正するというのなら、皇統に属する男系男子というような条件が付いて当然だろう。
皇族の身分を離れることは、女性皇族にとっては大きな意味があった。なぜなら、本来女性皇族は結婚相手が厳しく制限され、臣下に嫁ぐことは簡単に認められることではなかったからだ。特に令制では、皇親が臣下に嫁ぐことは禁止され、例外的に五世王との婚姻だけが許されてきた。延暦12年(793年)の詔で、現任大臣と良家の子もしくは孫は三世、四世の女王との結婚を許され、藤原氏は二世の女王との結婚を許されるようになったが、それでも厳しい枠がはめられていたことに変わりはなかった。そこで、女性皇族が皇族の身分を離れる道が開かれたことにより、臣下に嫁ぐ例が相次いだ。(p.64)
第二章「戦争と皇族」では、昭和天皇や皇族方が戦争を回避しようと努力したことが述べられている。高松宮などの避戦論を中心においているので、東條英機が少々悪者扱いされている。他方、東久邇宮の進言からは、当時の日本はむしろ開戦やむなしの国際状況だったのだろうという想像もつく。ハル・ノートで一歩譲ったら、そのまま潰れるという感じも分からぬではない。
ポツダム宣言受諾の御聖断については、多くの人が知っていよう。しかし、あえて引用しておく。
東京大空襲と広島・長崎への原爆投下。さらにソ連の宣戦布告を受けて、日本の敗北はいよいよ決定的となった。政府首脳の間では、一億玉砕を前提とし、もし降伏するならば国体を護持するために自主的武装解除などの条件を付けるべきだとする阿南惟幾 陸軍大臣らと、無条件 (以上p.132)(
降伏以外では交渉の決裂は免れないとする東郷茂徳 外務大臣らが対立。閣議も深夜に及んだが、決着に至らなかった。鈴木首相は午後10時過ぎに閣議を打ち切り、最後の選択は、最高戦争指導会議の御前会議で決することになった。(
昭和20年8月10日午前零時3分から御文庫附属室にて、天皇親臨の下、御前会議が開かれた。御前に集まったのは鈴木貫太郎 首相、東郷外相、阿南陸相、( 豊田副武 軍令部総長、( 平沼騏一郎 枢密院議長の七名。( 米内光政 海軍大臣、( 梅津美治郎 参謀総長、やはり玉砕か和平かで議論が対立したが、それぞれ三対三の両論対等となった。議長の鈴木首相は、議長の一票で決めるべきであるが、あまりにも重大で、自分の一票で決めることはできないとし、全く前例のないことであるけれども、天皇の御聖断を仰ぐほかないと決意。ついに外相案の、「皇室・天皇統治大権の確認」のみを条件とし、ポツダム宣言を受諾する旨が聖断により決定した。 (以上p.133)(
なぜ引用したかというと、「おい、これ、ひょっとして議長の鈴木首相の責任回避じゃないか?」と思ったから。いつの時代もトップは決断できないんだなあ、というか、「赤信号みんなで渡ればこわくない」みたいな多数決至上主義で政治を行ない、総員責任回避の態勢にあるんだなあと思ったからである。当時は日本の最高責任者は天皇だったわけだが、現代ではどうなのだろう。首相や衆議院議長は責任をとるのだろうか? 数年でやめることになる彼らは、そもそも責任をとれるのだろうか?
第三章「終戦と皇族」では、戦闘をやめるようにという陛下のご命令を伝えるために最前線に出掛けていったことなどが書かれている。「敗戦国の武装解除が無血で完了したことは、人類史上極めて異例なことであり、その上で皇族たちは絶大な役割を担ったことになる。」(p.153)という評価は正当だろう。
ここでちょっと私見を述べる。天皇の権威によって軍の戦闘を止めることができたことになるのだが、もしも天皇が存在しなかったらどうだろうか。そもそもあの戦争は軍部のテロと軍部大臣辞任の脅しによって内閣が軍部に引きずられていたために起きたのだから、たとえ内閣が宣戦布告を拒否したり、終戦を決断したとしても、軍部はクーデターを起こして軍事政権を成立させて気が済むまで戦闘を続けていただろうと思われる。したがって、天皇が存在しない日本では、もっと悲惨な結果になっていたと思われる。そもそも日本国がなくなっていたかもしれない。
第四章「占領下の皇族」では、皇籍離脱のことなどが書かれている。長めになるが引用しよう。
教育基本法の制定過程などと同じく、皇族の臣籍降下に関しても、総司令部はあたかも日本側が自主的に改革しているかのような体裁を取らせつつ、実はその後ろで、皇室財政を逼迫させるなどで臣籍降下への圧力をかけていた。総司令部の日本占領政策は極めて巧妙だった。
加藤次官が皇太后に現況を報告して間もなくの昭和21年5月28日と同31日、皇族情報懇談会という会議が開かれ、宮内省首脳部から皇族に対し、特権剥奪や皇室典範改正の件などについて説明があった。加藤がこれらを説明したのだが、その説明について不快感を顕にした皇族が多かった。閑院宮は次のように記している。「宮内当局の態度は甚だ煮えきらず、また皇室および皇族に関する重要事項を、あらかじめ皇族にはかることなく、一方的に独断的に決めてしまい、事後報告的に説明するという態度であったので、各皇族とも激越にこれを難詰した。たしかにこの日の加藤次官の態度は、不誠実きわまるものであった」
閑院宮は同年9月頃に宮内省は皇族の大半を臣籍降下させる方針を固めたとも記している。
●重臣会議の議論
ここで宮内官僚を中心に議論になったのは、十四ある宮家のうち、どの宮家を残し、どの宮家を臣籍降下させるかということだった。天皇との血縁の濃さを基準に決めることになっ (以上p.196)
たものの、さまざまな意見が出た。
宮内官僚は三直宮だけを残す方針を固めていた。しかし、牧野伸顕 伯爵〔明治の元勲、大久保利通の次男で元宮内大臣、吉田茂元首相の義父〕らは、香淳皇后の出身家である久邇宮だけは直宮の扱いにすべきこと、また明治天皇の内親王たちが嫁いだ四宮家(朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮) も残すように異論を唱えた。しかし、最終的には宮内官僚の考えどおり、三直宮家を除く十一宮家が臣籍降下することに決せられる。(
重臣会議で鈴木貫太郎元首相が「今日、皇族の方々が臣籍に下られることがやむを得ないことはわかったが、しかし皇統が絶えることになったならどうであろうか」と質問したところ、加藤次官は「かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょうか。しかし、適任の方がおられなければ、それは天が皇室を不要と判断されるのでしょう」と、いったん臣籍に降った「かつての皇族」が将来皇位に就く道が残されていることを述べた。そして加藤次官は、臣籍に降る皇族について「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と意見を述べ、鈴木はその考えに納得した。
加藤次官は、まさか本当に60年後になって「万が一」が現実のものとなり、皇統断絶の危機が議論されることになろうとは考えていなかったのではあるまいか。しかし、もし皇位継承者が不在となった場合は、皇籍を離れた元皇族が皇族に復帰し、皇位を継ぐべきであるとの意見 (以上p.197)
が交わされた上で、十一宮家の臣籍降下を断行することにしたのである。 (以上p.198)
なんと、宮内庁(宮内省)は終戦直後から獅子身中の虫だったのかい。このような状況で皇籍離脱が鈴木首相によって決定されたのなら、皇統断絶の危機にあっては旧皇族の復帰こそが最初に試みられるべきことであろうに。 皇族でないものが皇族になるのは国民感情が納得しないなどというが、旧皇族は、GHQの圧力によって皇族の身分を無理やり剥奪された存在であり、その他の一般国民とは違う特別な家系であると見なされるべきであろう。
終章「雲の上、雲の下」は戦後の旧宮家の歴史だが、そのうちの「巻末資料」からも、ちょっとだけ引用。
【北白川宮】……第二代の能久親王は、戊辰戦争のとき奥羽越列藩同盟に担がれ「東武皇帝」とされた。日光宮を名乗ったが、のちに新政府に許されて伏見宮に復帰し、明治5年に北白川宮を継いだ。(p.244)
このあたりは時々2ちゃんねるで話題になるが、ほとんど隠蔽された歴史で、知る人はごくわずかだと思われる。正式な天皇とは言えないとか色々と反論もあろうが、ほとんど天皇として担ぎ上げられるほど由緒正しい家柄であったことは確かである。
全体としてみると、なかなか面白い読み物であった。参考文献の量も非常に多く、なかなかよく勉強して書いているんだなあと感心した。いわゆる学者の本ではないから批判的な吟味をしているわけではないが、それでも(旧)皇族の末裔として素直に自分の先祖たちの歴史を見ているような感じがした。ひねくれた批判的評価よりも素直な記述のほうがどれほど歴史認識の役に立つか、そんなことを考えた。

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《皇位継承を考える(1)万世一系の天皇と国家》
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《寛仁殿下は男系維持を希望 ~皇位継承を考える(4)~》
《寛仁殿下の「事実」発言 ~皇位継承を考える(5)~》
《宮内庁の皇室潰し ~皇位継承を考える(6)~》
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